中山道 右. 左.
中山道、右・左 [第10回]
お茶壺さま
さわやかな新緑の五月も末っ方になり、ドンヨリとした蒸し暑い空模様の日が梅雨入りのやがて訪れることを予知してくれるようになります。そして農家はもう気忙しく農繁期を迎える段階に入っていきます。毎年のように、この頃になると思い出されるのが、「お茶壺道中」ことです。私はもちろん江戸時代のことで実際に知る由もありませんが、水呑百姓の後裔ですから、今自分が百姓をしていなくても、矢張りそれ何となく、百姓の問題に関する限り無縁とは思えず感心を示さずにはおられません。
そうした気持ちに強く焼きつけられた一つに「お茶壺さま」と呼ばれる、御茶壺道中の事があり「赤坂宿右記録や、大垣藩関係古文書などから収載されている赤坂町史、大垣市史などに若干触れてあるのを参考に御紹介いたしたいと思います。
寛永9年(1632年)三代将軍徳川家光が制度化して、毎年の吉例に宇治から将軍の飲用にするため江戸から茶壺(信楽焼)を送り、それに納められた新茶を運ばせ献上させる。これはその行事を殊更に厳めしく、大名行列と同じように柳々しいデモ行列で威勢を張り諸国大名の将軍に対する服従のあかしを示させたものと言われています。
その昔、宇治より茶壺を禁裡(皇室)や将軍家などに献上する前例は室町時代から行なわれ、豊臣秀吉や徳川家康の時代に、この行事の原型といったものがあったようですが、前述のように幕府の権威づけとして制度化したのは家光の時代(寛永9年)からであり、御茶壺さまの献納が終わらぬうちは絶対に新茶の発売が禁止されており、厳しい現制が守られて、大垣地方では毎年6月の田植えどきになると、どんなに忙しくても「お茶壺さま」の御通行の日は、その行列人足に男たちが狩り出され、そのほかの者たちは「お茶壺農休み」といって、田植えの終わった7月2日の農休みと2回づつ農休みがあった、といいます。そして「お茶壺さまは、仲々大きさに威張ってござった」と言われるように、道中行列の前を横切ったり礼を失したりでもしようものなら即座に無礼討ちの処分をうけるという極刑の悲運に泣かされた庶民も多くあったということです。
お茶壺さまの新茶は立春から80日目ころから御茶摘初めを行ない、それより26日目に「御茶卸試し」さらに12日目に江戸発(茶壺)後9日目に到着した壺に新茶お御詰め、それより7日目に宇治御発駕、中山道を経て、土用の2日前に江戸着、三廟霊屋と大奥城内に分けて、この行事が終わるのですが、期間も長く、道中のあり方(形式)も上使とか御三家卿の中間に位する威儀をもち、沿道の大名や宿場町や、それに伴なう関係庶民に至るまで、この大きな示威的道中行事には大きな負担となっていたことは記録にも明らかです。
元禄6年以後は垂井から美濃地へ入って大垣泊りになったようですがそれでも荒川、長松辺りの出水で交通不可能のため赤坂廻り墨俣経由となることも多く、そうした折の記録には、行列お出迎え、御馳走役、先乗騎馬、山乗物、乗駕、宿駕、御朱印人足、荷駄馬、竹馬、金箱、長持、提灯、貸人足、貸馬、添人足、添馬など大袈裟な供揃え総計数百万にも及んでいますが、そのうち、宰頭領、数寄屋頭、奉行(大阪城番)らをはじめ、御朱印人足とそれに伴なう馬までの費用は別として、その他一切の経費は幕府から支給されないため、関係地方民の無料奉仕と宿場町、所領大名の負担ということで、内実なところ、一般に大きなギセイが強いられていた、というわけでしょう。江戸時代大交通吉例年中行事の一つ「お茶壺さま」と敬語をつかわれた、その背景を偲ぶ史話として擱筆。御愛読多謝。
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